Living Together, Growing Together

JS・ミル

 

「自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬ていた。

『百年はもう来ていたんだな』とこの時始めて気がついた」。

夏目漱石『夢十夜』

“And that’s the place for me, the only place for me

No one remembers, no one remembers…”

Hal David & Burt Bacharach “No One Remembers My Name”

 

 一八三〇年夏、二二歳の裕福で可憐な女性ハリエット・テイラー(Harriet Taylor)はゼーレン・キルケゴールの言う「人生行路の諸問題」について深く悩み、思いあまって、それを所属するユニテリアン教会の牧師に相談する。彼は自ら答えず、気鋭の知識人として注目され始めたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)と会うことを勧め、晩餐会が彼女の邸宅で催されることになる。招かれたこの二四歳の思慮深き若者は、彼を待っていた女性の魅力──小柄で華奢、栗色の髪、大きな潤んだ瞳、すらりとした肩、透けるような白い肌、小鳥を思い起こさせる抑揚のある声、明晰な頭脳、芸術への理解、でしゃばりすぎない態度──に一目ぼれし、彼女の方も、繊細で端正なマスクと雰囲気のある体躯、上品な立ち居振る舞い、類稀なる知性に惹かれてしまう。お互いに社会的関心や問題意識、価値観、教養、美的センス、容姿、物腰などどれをとっても申し分なく、「こんな素敵な人とはもう二度と会えない。この人しかいない」と確信したとしても不思議ではない。

 

What do you get when you fall in love?

A guy with a pin to burst your bubble

That's what you get for all your trouble

I'll never fall in love again

I'll never fall in love again

 

What do you get when you kiss a guy?

You get enough germs to catch pneumonia

After you do, he'll never phone ya

I'll never fall in love again

Don’t you know that I'll never fall in love again?

 

Don't tell me what it's all about

'cause I've been there and I'm glad I'm out

Out of those chains, those chains that bind you

That is why I'm here to remind you

 

What do you get when you fall in love?

You only get lies and pain and sorrow

So far at least until tomorrow

I'll never fall in love a- gain

No, no, I'll never fall in love again

 

Ahh, out of those chains, those chains that bind you

That is why I'm here to remind you

 

What do you get when you fall in love?

You only get lies and pain and sorrow

So far at least until tomorrow

I'll never fall in love again

Don’t you know that I'll never fall in love again

I'll never fall in love again

(Hal David & Burt Bacharach “I’ll Never Fall In Love Again”)

 

 ジョン・スチュアートは、その死後刊行された『自伝(Autobiography)(一八七三)の中で、彼女が一般に「美人で才媛である」と思われ、「ごく親しい人たちからは、深い感情の持主で、鋭い直観的な知性ときわだった瞑想的・私的な資質をそなえた人」と見られていたが、「カーライルより詩人であり、私より思想家」であると次のように絶賛する。

 

 彼女のばあい、あらゆる種類の迷信()から解放されていたことも、今なお社会の動かしがたい構成分子の一部とされている多くのものに熱心に抗議を放っていたことも、どぎつい知性の産物ではなく、みな高貴な感情の鋭さから出たもので、一方では敬うべきものに謙虚にへりくだる性質をも合わせ持っている人であった。気質や性格のみならず一般的な精神的特徴の点からも、私はしばしば当時の彼女を詩人のシェリーになぞらえたものだが、思想や知性の点のなると、シェリーは彼の能力がその短い一生の間に発達をとげたかぎりでは、彼女の最後の姿にくらべてはほんの子供みたいなものであった。

 試作の非常に高い領域と日常の小さな実際的な仕事を問わず、彼女の頭は同じ完全な働きを示して、問題の核心にせまり、常に本質的な観念なり原理なりをつかんできた。あれだけの性格ですばやい仕事ぶりが知的・感情的両方の能力に行きわたっていたのだし、合わせて感情にも想像力にもあれだけめぐまれていたのだから、彼女はこの上もない芸術家にもなり得ただろう。

 同様にあの熱烈でやさしい気立てとあの活発な能弁は必ずや彼女を大雄弁家たらしめたろうし、またあの人間性への深い知識と実生活における抜け目なさ賢さとは、もしもそのような道が女性にも開かれていた時代だったら、彼女を人類の統治者のうちでも有数のものにしただろう。

 

 パーシー・ビッシュ・シェリーは、イギリス・ロマン派の中で、反社会的と見なされるほどラディカルであり、 その生涯は作品以上に世間に物議を巻き起こしている。彼は『無神論の必然性』を書いてオックスフォード大学から追放され、ハリエットという妻がありながら、後に『フランケンシュタイン』の著者として知られるメアリー・ゴドウィンとヨーロッパ旅行に出かけ、イギリスに戻ってしばらくすると、本妻がハイドパークの池で入水自殺してしまうが、その三週間後にメアリーと再婚し、追い出されるように渡った大陸を放浪した挙げ句、ヨット事故で命を落としている。また、トーマス・カーライルは毒舌家として知られているだけでなく、ジョン・スチュアートを「快楽の計算機」と酷評するのみならず、「馬鹿」呼ばわりした人物であるにもかかわらず、両者の友情は感動的でさえある。不寛容なこの嫌われ者は唯一の友と言っても過言ではないジョン・スチュアートにフランス革命に関する原稿を送ったものの、その誠実なる友人が不注意からそれを燃やしてしまったが、謝罪を受けた後、書き直した原稿を再度彼に郵送している。ロマン主義を体現した詩人の「気質や性格のみならず一般的な精神的特徴の点」からも凌ぎ、また、『衣装哲学』の作家の文体は、ドイツ文学からの影響のせいか、回りくどく、無骨ながら、力強さに溢れ、高揚感があるけれども、それ以上の詩的才能を持っているという賞賛は並々ならぬものであろう。

 このめぐり逢いに抑えきれない歓喜で魂を震わせながらも、ジョン・スチュアートは、ハリエットも同様に、少々落胆せざるを得ない。と言うのも、ヴィクトリア朝の人々は彼女を「テイラー夫人(Mrs. Taylor)」と呼び、残念ながら、彼を招待したジョン(John)という夫がいたからである。

 

You see this guy, this guy's in love with you

Yes I'm in love who looks at you the way I do

When you smile I can tell it know each other very well

 

How can I show you I'm glad I got to know you 'cause

I've heard some talk they say you think I'm fine

This guy's in love and what I'd do to make you mine

Tell me now is it so don't let me be the last to know

 

My hands are shakin' don't let my heart keep breaking 'cause

I need your love, I want your love

Say you're in love and you'll be my guy, if not I'll just die

 

Tell me now is it so don't let me be the last to know

My hands are shakin' don't let my heart keep breaking 'cause

I need your love, I want your love

Say you're in love and you'll be my girl, if not I'll just die

(Hal David & Burt Bacharach “This Guy's In Love With You”)

 

 ハリエット・テイラーは、一八〇七年、『テス』の作者トーマス・ハーディーの遠戚にあたるハリエット・ハーディー(Harriet Hardy)としてロンドンに生まれ、二六年、一八歳のとき、成功した薬の卸売業を営む濃い眉毛が特徴的なもさっとした風貌の二九歳のジョン・テイラーと結婚する。この冴えない容姿の男は、彼女と違い、芸術や学問に関してまったく素養がなかったが、太っ腹で、熱心なユニテリアンの信者であり、大陸からの亡命者をかくまう自由主義者である。と同時に、自分にはもったいないほどの美貌と知性を兼ね備えた女性を妻にしたものの、嫌われるのが怖くて、愛情深くとも、過度の干渉をすることを避け、彼女の悩める姿におろおろするだけの単純ながら心優しき叩き上げの人物である。この夫婦は、二七年に、ハーバート(Herbert)、三〇年、ハジ(Haji)ことアルジャーノン(Algernon)、三一年には、リリー(Lily)ことヘレン(Helen) の三人の子を儲け、ジョン・スチュアートと出会ったのは、ハジを出産したすぐ後のことである。

 しかし、ジョージ・ハリソン夫人パティとエリック・クラプトンのごとく、それはジョン・スチュアートにとっても、ハリエットにとっても、運命を信じることに通じても、親密さを増す障害にはならず、二人はお互いの気持ちを確かめ合っていく。

 

Promises, promises

I'm all through with promises, promises now

I don't know how I got the nerve to walk out

If I shout, remember I feel free

Now I can look at myself and be proud

I'm laughing out loud

 

Oh, promises, promises

This is where those promises, promises end

I don't pretend that what was wrong can be right

Every night I sleep now, no more lies

Things that I promised myself fell apart

But I found my heart

 

Oh, promises, their kind of promises, can just destroy a life

Oh, promises, those kind of promises, take all the joy from life

Oh, promises, promises, my kind of promises

Can lead to joy and hope and love

Yes, love!!

 

Every night I sleep now, no more lies

Things that I promised myself fell apart

But I found my heart

 

Oh, promises, their kind of promises can just destroy a life

Oh, promises, those kind of promises take all the joy from life

Oh, promises, promises, my kind of promises

Can lead to joy and hope and love

Yes, love!!

(Hal David & Burt Bacharach “Promises, Promises”)

 

 イギリスの知的シーンは、これまで、デヴィッド・ヒュームやジェレミー・ベンサム、ジョージ・バーナード・ショーなどとびきり風変わりな人物をつねに輩出してきたが、現在に至るまで古典的リベラル派のプロトタイプと見なされているジョン・スチュアートは、比較的、常識的な知識人である。もっとも、それは二点、すなわちハリエットへの想いと早期教育を除いてという条件がついてであり、彼と彼女は、ゼーレン・キルケゴールとレギーネ・オルセンと並んで、哲学者の恋愛として最も語られ、男性はどこまで一人の女性を愛し続けられるのか、あるいは待ち続けられるのかという愛の力に対する問いかけへの一つの具体例として歴史に残っている。保守的で陰険、偽善的なヴィクトリア朝のお高くとまった人々からは急進派扱いされたものの、ジョン・スチュアートは、その著作において、バランス感覚のいい知性であるけれども、この愛の持続と尋常ではない英才教育によって、イギリス伝統の型破りな知識人として列席できるだろう。

 当時最高の知識人ジェレミー・ベンサムの友人であると同時に、功利主義普及を使命と固く信じていた豪胆無比な弟子の父ジェイムズの早期教育はジョン・スチュアートの知性を開花させる。ジョン・ロックのタブラ・ラサ説が支配的な島国で、ジェレミーも四歳からラテン語を独習し始め、六歳を前にその学術語による見事な作文を書き上げ、ウェストミンスター・スクールやオックスフォード大学のクイーンズ・カレッジでの勉強を一八歳までに終えながらも、「この世の牢獄」と唾棄する学校嫌いであり、この影響下の教育方針は、当然、学校無視にならざるを得ない。一八〇六年五月二〇日ロンドンに生まれたジョン・スチュアートは真の教育の妨げにしかならないという理由で一度も学校に通うことはないだけでなく、弟たちに教えることはあっても、人生を通じて、大学であっても教鞭をとることもない。彼は、暗記を中心とした詰めこみ教育、すなわちインドクトリネーション(]indoctrination)ではなく、観念連想の心理学に基づいていると言っても、三歳からギリシア語、八歳にはラテン語や幾何学・代数学を学び始めている。スコットランド出身の野心家は九人兄弟の長男にのみこの英才教育を課し、詩は迷信だと切り捨て、感情など卑しきものと罵り、宗教は道徳の敵であると家族の間から追放したはっきりした人物である。トーマス・ロバート・マルサスやデヴィッド・リカードゥなど話題の知識人が頻繁に家へ訪れ、ジョン・スチュアートは、その中でも、酒もタバコも嗜まない白髪で馬面、帽子を頭の天辺に載せたジェレミーおじさんになつき、定職に就かず、父の遺産で生涯を暮らしたこの有名人もその坊やを「われわれの偉大な後継者」と呼んでいる。一〇歳の頃までに、プラトンやデモステネス、ヘロドトスなどの古典を読破し、父ジェイムズによる著作『インドの歴史(The History of India)』が刊行された一八一八年、スコラ論理学とアリストテレスの論理学、翌年から、アダム・スミスや デヴィッド・リカードゥの政治経済学を研究している。もちろん、同世代の子と遊ぶ時間が入りこむ余地はなく、散歩中でさえも父による指導は続き、デヴィッド・ヒュームやエドワード・ギボンの歴史学の習得、すなわちインカルケーション(Inculcation)に当てられ、彼が質問に答えられない、もしくは不十分な解答を示した場合、容赦なく、叱責されている。ジョン・スチュアート本人は、『自伝』の中で、この一連の教育について「普通の能力と体力の持主だったら、どの子どももなしとげられることである」と回想しているが、これは、発達心理学や教育心理学において、環境と遺伝、あるいは学習カリキュラムと発達段階をめぐる極めて興味深いと同時に特殊なモデル・ケースとして扱われている。

 ジェイムズが自身による教育課程の修了と判断した一四歳のとき、南仏のアヴィニョンで、ジェレミーの弟サミュエルの家族と暮らした一年間はジョン・スチュアートに精神的な開放感をもたらしている。ジトジトと雨が降り続き、排煙のせいで煙たく、気の滅入るような暗い霧の日の多いロンドンと違い、プロヴァンス地方は明るい陽の光に溢れ、空気は澄み、それによって鮮やかに映える風景は彼の心を晴れやかにしてくれる。かの地は、彼にとって、ヨハン・ヴィルフガング・フォン・ゲーテのイタリア同様、生涯かけがえのない場所であり、フランスの情勢や文献に関心を持ち続けたきっかけとなる。フランス語を習得し、フランスの知識人と交友を深め、社交界にも出入りしている。その後も、ことあるごとにこの魅惑的な地を訪れ、長期間すごしている。「フランス人の交際の打ちとけた友好と愛想のよさは、他人を(ほとんど例外なしに)仇敵か厄介者のように扱うイギリス人の生活様式とは対照的であった」(『自伝』)。ただし、熱心に女性の権利拡大を唱えた彼の信条に反して、二〇〇五年現在、フランスの下院における女性議員の比率は一五%にとどまり、お粗末極まりない日本よりましだが、イラクやアフガニスタンを下回る。一八二三年、父が勤務する東インド会社(British East India Company)に就職し、会社が廃止されるまでの三五年間、この後のイギリス帝国主義の象徴とも言うべき企業に在職していく。

 

A chair is still a chair

Even when there's no one sitting there

But a chair is not a house

And a house is not a home

When there's no one there to hold you tight,

And no one there you can kiss good night.

 

A room is still a room

Even when there's nothing there but gloom;

But a room is not a house,

And a house is not a home

When the two of us are far apart

And one of us has a broken heart.

 

Now and then I call your name

And suddenly your face appears

But it's just a crazy game

When it ends it ends in tears.

 

Darling, have a heart,

Don't let one mistake keep us apart.

I'm not meant to live alone. Turn this house into a home.

When I climb the stair and turn the key,

Oh, please be there still in love with me.

(Hal David & Burt Bacharach “A House Is Not A Home”)

 

 その一方で、この厳格で情操性が欠落した教育はジョン・スチュアートを神経質にしてしまい、二〇歳には「鬱病」と呼んでいいほど深刻な状態に陥っている。一八二二年から翌年にかけて、ベンサム派が功利主義協会を設立し、研究や討論の場にジョン・スチュアートも出席して、指導的な地位を任されるようになり、ベンサムの功利主義立法やリカードゥの自由主義経済、マルサスの産児制限運動を支持する哲学的急進派の機関誌『ウェストミンスター・レビュー(Westminster Review)』に積極的に寄稿して功利主義の宣伝活動を精力的に行っている。ところが、一八二六年のある秋の朝、突然、得体の知れない憂鬱な気持ちに襲われ、ジョン・スチュアートはそれに一年以上も悩まされていく。「かりにおまえの生涯の目的が全部実現されたと考えて見よ。おまえの待望する制度や思想の改革が全部、今この瞬間に完全に成就できたと考えて見よ。これはおまえにとって果たして大きな喜びであり幸福であろうか」。『自伝』によると、こう二〇歳の青年は自問したが、彼の答えは「否!」である。その瞬間から「生涯を支えていた全基盤がガラガラとくずれ落ちた」。無気力になった彼は、ジャン=フランセ・マルモンテル(Jean-François Marmontelの『回想録(Mémoires)』を読んだことを境に何とか危機を脱し始める。「彼の父が死に、一家が悲嘆に暮れていた時、まだほんの子供だった彼に突如霊感が湧き出て、自分こそ一家のために何もかも引き受ける──一家の失ったものはすべて自分で埋め合わせしてやると自分も感じ、みなにも感じさせた」。この一節を目にした瞬間、ポロポロと涙が零れているのを知ったジョン・スチュアートは、心が砂漠の如くカラカラに乾ききっていたわけではなく、涙はただ伏流水のように隠れていただけで、自分の中にもオアシスがあり、感情がまだ確かに生きているとハッとする。さらに、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやカール・マリア・フィン・ウェーバーといった初期のドイツ・オペラの作曲家の音楽に感動し、ウィリアム・ワーズワースやサミュエル・テイラー・コールリッジ、ジョージ・ゴードン・バイロンといったロマン主義者の少々情緒的な詩にも感銘を受け、クロード・アンリ・ド・ヴロイ・サン=シモンやシャルル・フーリエ、オーギュスト・コントなど明晰性と一貫性に欠け、めまぐるしく議論が移動するフランスの思想家の著作にも親しみ、忠実なるベンサム主義者から、その修正主義者へと立場をシフトしていく。

 

Make It Easy On Yourself

Make It Easy On Yourself

Oh, breaking up is so very hard to do.

 

If you really love him

And there's nothing I can do

Don't try to spare my feelings

Just tell me that we're through

 

And make it easy on yourself

Make it easy on yourself

'Cause breaking up is so very hard to do

 

And if the way I hold him

Can't compare to his caress

No words of consolation

Will make me miss you less

 

My darling, if this is goodbye

I just know I'm gonna cry

So run to him

Before you start crying too

 

Oh, baby, it's so hard to do

Make It Easy On Yourself

Make It Easy On Yourself

(Hal David & Burt Bacharach “Make It Easy On Yourself”)

 

 品行方正で清く正しい男と評判の彼がその人妻とディナーを共にしたのは、芸術セラピーによって、この無力感から脱却した二年後であり、まさに感情の重要性を認識し、再生している過程の最中である。カチャカチャと静かに食器の音が響く中、誠実かつ抑制されながらも、気のきいたユーモアと楽しいおしゃべりがぎこちなかった場を和ませ、ジョンはすっかり上機嫌になって、「こんな嬉しそうなハリエットを見たのもいつ以来だろう?これでハリエットもきっとよくなってくれる」と安堵し、ハリエットとジョン・スチュアートは時々そっと目が合うと、高まっていく自分の気持ちに戸惑いつつも、「もしかしたら…でも、そんなことは…」と淡い期待を抱いてしまう。あの日はジョン・スチュアートにも、ハリエットにしても、さらにジョンにとっても、忘れえぬ日となる。「もしあの日がなかったら」と後にジョンは悔いことはあったけれども、「しかし、そうだったら、愛しいハリエットの表情は沈んだままで…いや、だいたい生きていただろうか」と苦悶する。

 ハリエットに関して、HO・パッピ(H. O. Pappe)の『ジョン・スチュアート・ミルとハリエット・テイラーの神話(John Stuart Mill and the Harriet Taylor Myth)(一九六二)のような「恋は盲目」の諺の好例であるという無礼な意見はなくなったものの、彼女がかなり知的素養を持っていたことはほぼ確認されているとしても、自分自身を超克する知性の持ち主だったというジョン・スチュアートの主張に承服しかねる立場も少なくない。フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek)の『ジョン・スチュアート・ミルとハリエット・テイラー(John Stuart Mill and Harriet Taylor)(一九五一)やルース・ボーチャード(Ruth Borchard)の『人間ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, the Man)(一九五七)はハリエットのジョン・スチュアートへの影響を強く認めているし、マイケル・パック(Michael Packe)は、『ジョン・スチュアート・ミルの生涯(The Life of John Stuart Mill)(一九五四)の中で、一八三二年以降、「ハリエットはミルの弟子から神託と女神になった」と記している。この見立ては、解釈によっては、彼女が彼にとってミューズであり、心理カウンセラーや精神分析家の役割を果たしたとも言い換えられる。

 ハリエットは、厳しすぎる態度で接し続けたため、恐怖心さえ抱くようになってしまったジェイムズに代わるジョン・スチュアートの新たな依存の対象だったのではないか、あるいは父の教育方針により極端な依存的傾向が身についてしまい、それを見つけなければ生きていけなくなった彼の求めた頼るべき対象だったのではないかという疑問が湧くのも当然であろう。ただ、父に対して複雑な感情を抱いていたとしても、彼がエディプス・コンプレックスに囚われていなかったのは間違いない。ジョン・スチュアートは、『自伝』の中で、強烈な家父長的特性の父親に関してはかなりのスペースを割いているのに対し、不可思議なまでに、母親に一切言及しておらず、彼女がどういう人物、あるいは母親で、彼がどのような感情を抱いていたのか直接的に知ることはできないが、その無視しているという態度からそれがうかがわれる。一八五四年、母が危篤に陥ったときでさえ、いくら妹から懇願されても、ハリエットとの交際を反対されたことを理由に、ジョン・スチュアートは見舞いに行くのを拒んでいる。ハリエットが、ジョン・スチュアートにとって、父どころか、母の役割も果たしたのではないかとう説が展開されるのも無理からぬことである。

 ジョン・スチュアートとハリエットは、最初、人目につかぬようにしていたが、次第におおっぴらに逢うようになり、彼女がいそいそと外出して残されたジョンと子供たちだけで夕食をとることもしばしばである。一大スキャンダルに発展しそうなはずだが、ジョン・スチュアートとハリエットは不適切な関係に至ることはなく、傷心に苦しみながらも、ジョンは彼を脅したり、痛い目にあわせたりすることもない。ハリエットにしても、何度か、ジョン・スチュアートを忘れようと思ったけれども、それはできず、ジョンも妻に元の生活に戻らないかと説得したが、徒労に終わる。ハリエットはジョンと離婚して、ジョン・スチュアートと一緒になることを望み、それを夫に告げたのも当然のなりゆきであったけれども、彼女への未練を断ち切れない彼はそれだけは承諾しない。子供のことも頭にあったけれども、それ以上に、「やっぱりハリエットを愛している」と自嘲するジョンは、彼女が応えてくれるかどうかは別にして、彼なりの姿勢で想うことを決意する。結婚生活を破綻させたのは妻の側であり、夫に非はなく、周囲は彼に同情しこそしても、なじりなどしない。それでなくとも、当時の判例・法律では、離婚は必ずしも容易ではなく、再婚前提の離婚となると、ヴィクトリア朝の世間の目が冷たいことは想像するに難くなく、また、夫と別居したまま、かの哲学者と一緒に暮らすことは社会的な自殺を選ぶのに等しい。一八三六年、ジョン・スチュアートが体調を崩してパリに静養に行ったとき、夫の許可を得て、ハリエットは子供を連れて、彼の看病にあたっている。夫婦の間は完全に冷えきってしまい、アンナ・カレーニナとアレクセイ・キリーリッチ・ヴロンスキー伯爵のように陥ることはないものの、ジョン・スチュアートとハリエットは二人だけでスイスやイタリア、フランスに旅行したにとどまらない。友人や家族から節度を守るように責められたにもかかわらず、ジョン・スチュアートがテイラー家を訪れることもあり、夫は察して、クラブに出かけていく。どこまでも気のいい男だ。三人は、結局、この奇妙な関係を二〇年に亘り続けることになる。ハリエットには「支配者」、ジョンには「神の慎み深さ」、スチュアートには「執事」や「畜舎の番人」という意味がそれぞれの名前にある。

 

 習慣の専制は、いたるところで人間の進歩をたえず妨害するものとなっており、習慣的なものより何かすぐれたものをめざそうとする性向にたえず敵対している。この性向は、個々の場合に応じて、自由の精神とか、進歩ないし改善の精神と呼ばれている。改善の精神は、かならずしも自由の精神と同一ではない。なぜならそれは、気のすすまぬ人々に改善を強いることを目的とすることもあるからだ。そこで、自由の精神は、そのような試みに抵抗するかぎりにおいて、改善に反対する人々と局部的に、また一時的に同盟する場合がありうる。しかし、改善を生む唯一の確実で永続的な源泉は、自由である。 なぜなら、自由があれば、そこには、個人の数と同じだけの、改善の独立した中心となりうるものがあるからである。

 しかしながら、進歩的原理は、自由への愛、あるいは改善への愛のいずれの形をとるにもせよ、習慣の支配に敵対し、少なくともそのくびきからの解放を含むものである。そして、この両者の争いが、人類の歴史のおもな関心の的となっている。世界の大都分は、正確にいうならば、歴史をもっていない。習慣による専制的な支配が完璧(かんぺき)だからである。これが東洋全体の状態である。そこには、習慣が、すべての事がらにおける究極的なよりどころとして存在している。公正や正義は、習慣への一致を意味する。 習慣の主張には、権力に酔った暴君ででもないかぎり、だれも反抗しようなどと思わない。そしてその結果は、われわれの見るとおりである。それらの国民も、かつては独創性をもっていたにちがいない。彼らもはじめから、人口が多く、学問がさかえ、多くの生活技術に精通していたところに生まれたのではたい。彼らはこれらすべてをみずからの手でつくりあげたのであって、その当時は、世界で最大最強の国民だった。彼らの現状はどうであろうか。彼ら(東洋人)の祖先が壮麗な宮殿や豪華な寺院をもっていたときに、祖先はまだ森林を流浪していたのであったが、習慣が、自由や進歩と相並んでしか支配しなかったような他の種族の従属者や隷従者となっているのである。

(ジョン・スチュアート・ミル『自由論』)

 

 ハリエットとの交際を賛成していた人がほとんどいなかったため、ジョン・スチュアートは古くからの友人の多くを失ったり、交友が疎遠になったりしただけでなく、自分の家族とも険悪な関係に陥り、二人はほぼ孤立状態に置かれている。父も母も口を開けば、ハリエットの悪口を並べ立てるのに、ジョン・スチュアートはうんざりし、ジェレミーおじさんの「最大多数の最大幸福」は、間違いなく、誤謬だと強く悟る。「ハリエットとの愛のためだけに私の人生はあり、彼女こそ私にとって唯一の真実である。ハリエットと出会うために私の今までがあり、これからは彼女と共に生きるためにある。私の生はハリエットとの愛そのものだ。彼女は私の心の襞を解き放ち、その穏やかな心持ちはいかなる知的活動をも可能にしてくれる。心がため息のように震え、気持ちを落ち着かせ、呼吸を整えれば、困難なことさえできる。しかし、私はただ彼女の考えを語っているにすぎない。詩人でもない私が彼女の素晴らしさをいくら形容したところで、歯が浮いたものになるだけでなく、浅はかな比喩はすぐに陳腐化するものであり、それは私の本意ではない。世界中の詩人が語ってきた愛の詩がハリエットに捧げられていたとしても、私の愛はそれ以上の質を秘めている。たった一人の女性を愛することは、これまで人類が築きあげてきたすべての歴史の再検討をはるかに上回るのだから」。そうジョン・スチュアートが思っていたに違いないとしても、周囲は彼がハリエットにだまされているのだと信じて疑わない。現代と同じように、「まったく、世間知らずのお坊ちゃんがとんだ女にひっかかってしまった」と噂話に興ずる者も、言うまでもなく、少なからずいる。

 

Hey! Little Girl

Comb your hair, fix your makeup

Soon he will open the door

Don't think because there's a ring on your finger

You needn't try anymore

 

For wives should always be lovers too

Run to his arms the moment he comes home to you

I'm warning you...

 

Day after day

There are girls at the office

And men will always be men

Don't send him off with your hair still in curlers

You may not see him again

 

For wives should always be lovers too

Run to his arms the moment he comes home to you

He's almost here...

 

Hey! Little girl

Better wear something pretty

Something you'd wear to go to the city and

Dim all the lights, pour the wine, start the music

Time to get ready for love

Time to get ready

Time to get ready for love

(Hal David & Burt Bacharach "Wives And Lovers”)

 

 一八四三年、一三年間を費やして、そうした状況下、ジョン・スチュアートは最初の本格的著作『論理学体系(A System of Logic)』を刊行する。ここで彼は、ジェレミーが始めた自然科学の方法論の社会科学への応用を修正・発展させている。近代科学が経験的に技能を身につけた熟練労働を機械に置き換え、非熟練労働者を生産現場にとりこんだように、技能をソフト化=知識化すると、それは技術となり、普遍化できるという見取り図を描く。そこで、彼は「同意の方法(Method of agreement) 」・「差異の方法(Method of difference)」・「同意と差異の接合方法(Joint method of agreement and difference)」・「残余の方法(Method of residues)」・「付随変動の方法(Method of concomitant variations)」の五つの重要な方法を示している。フランシス・ベーコンは観察によって得た経験・技能を整理して知識・技術へと構築する帰納法を提唱したが、森毅が『数学の歴史』で指摘している通り、自然科学における数学の意義を真に理解していなかったため、優れた数学者でもあったルネ・デカルトの演繹法に比べて、穴の多い不十分で粗雑な理論にとどまっている。ジョン・スチュアートはこうした既存の説を吟味して問題点を検討し、自然科学の裏づけを持たせた上で、完成度の高い帰納法的な論理学として統合する。自然科学的認識は条件・手段を考える社会科学的領域に応用できるだけでなく、扱い方によっては、倫理学の再考慮にも利用できる。と言うのも、倫理学は目的の選択・再考をするものであり、それらの科学と相互補完しているからである。「倫理学は人間性と人間社会についての科学(science)に対応した技能(art)の一部である」(『論理学体系』)

 自然科学の倫理学への応用は文章題を論理式に変換することを示唆しているのであり、自然科学を社会のインフラと見立てる功利主義的な論理学は二〇世紀の情報理論の源流の一つである。クロード・シャノンはビットを導入することで、ドキュメントだけでなく、音声や画像、動画のファイル化を可能にしたけれども、それは功利主義的理想の実現であり、コンピューターやゲノム解析は、その意味で、功利主義の主要な成功例である。

 と同時に、できるからと言ってやっていいのか、またはどこまでなら許されるのか、その功罪は何かといった情報をめぐる現代の顕在化した諸問題、すなわち倫理や政治、法律、経済、メディア・リテラシーなどにもジョン・スチュアートは示唆を与えている。彼は。この論理学を出発点として、この著作以降も、極めて広範囲の領域を論じていく。それは、まるでわれわれが直面している状況を予言しているようだ。

 近代科学は因果関係の解明を追及してきたが、それには実験という手法が有効である。実験では、変数を極力減らし、仮説に基づいた因果関係の有無を確認できるけれども、無数の変数が複雑に絡み合っている現実世界の観察によって特定の因果関係を解明するのは非常に困難である。観察にのみに頼ると、しばしば、因果性と言うよりも、影響を認める程度にとどまってしまう。そのため、観察から生まれた仮説を実験を通じて証明するのが近代科学の手続きとして定着する。しかし、実験は、現実世界に比べて、特殊な環境下で行われるため、ある種の因果性が確認されたとしても、それが現実現象の理解に役立たない事態も少なくない。また、実験は短期的な事象に関しては確証できても、長期間に亘る現象にはお手上げである。チャールズ・ダーウィンは鳥類の観察を通じて進化論を導き出したが、それを実験で証明することはほぼ不可能である。そもそも、倫理上、許されない実験もある。さらに、二〇世紀後半から変数を可能な限り削らないで研究する学際性・実践性への動きも強まっている。コンピューターの普及に伴い、非線形やカオス研究が発展した結果、因果性の説明よりも、現実世界における現象を記述するシミュレーションが主流になっている。近代性の浸透に連れて、一時期、功利主義的な論理学は乗り越えられた思想として扱われてきたが、むしろ、復活している。

 さらに、一八四八年、『経済学原理(Principles of Political Economy)』を発表するが、マーク・ブローグ(Mark Blaug)は、『ケインズ以前の100人の経済学者(Great Economists before Keynes)(一九八六)において、経済学史上のミルの功績を次のように要約している。

 

 一九世紀の後半、マーシャルの『経済学原理』(一八九〇)が出版されるまでのビクトリア時代のほとんどすべての間、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』は、英語圏での指導的な経済学のテキストであった。それが広く受け入れられたのは、現代的経済諸問題を広範に取り扱っていたからであり、経済分析と歴史的描写をうまく組み合わせていたからであり、リカードゥ原理をリカードゥ批判からもたらされた制限の多くと力強く統合したからであり、伝統的枠組みのなかにみられる急進的な調子からであり、優美な文体からであり、論理学・哲学・政治理論家・美文学者としてのミルの名声からであった。彼は単なる経済学者ではなく、指導的ベンサム主義者であり、「自由主義の聖人」であり、ほとんどすべての討論の場において同時代の知識人たちのなかでそびえ立つ人物であった。

 

 ミルの『経済学原理』は、マーシャルの『原理』と同様、その独創的特長が目立たないようにうまく書かれている。その結果、しばしばその書物は「リカードゥの再述」とされたのである。しかし、彼自身リカードゥの忠実な弟子であると考えていたにもかかわらず、その書物はまことに理論的確信で満ちており、もっともすばらしいことは、国際貿易における相互需要の諸効果を説明するためにリカードゥの比較生産費の原理を拡張したことであった。さらに彼は、スミスの相対的賃金論を労働市場における非競争集団の概念を導入することにより適したものとして説明し、「需給法則」を恒等式というよりはむしろ代数式として再述し、結合生産が労働価値説をつくり出すという問題を認識し、あらゆる費用は本来なしですませた機会費用であるという自覚を示し、製造業における規模経済の出現を論じたのである。このような新しい洞察の一覧表は、ほとんど無限に広がっていくだろう。しかしもっと驚くべきことは、経済思想に関して本質的にリカードゥ的枠組みから引き出したその政策的含意である。彼は、相続税、貧農の財産所有権、利益配分、生産者と消費者組合に関する強力な主唱者だったのである。「財産について」と題した最初の章で、オーエン、サン=シモン、シャルル・フーリエの著作に見られるような社会主義理論を、彼はおどろくほど共感の念をもって説明したのである(彼は、同年に英語で出版された『共産党宣言』の著者であるマルクスについては、その時もまたその後になっても決して意識しなかった)。さらに、政府活動の適正な範囲に関する最期の翔で彼は、幼稚産業を擁護した保護主義、工場における労働時間の規制、最低水準の視覚があることを確かめるための国の試験体制と結びついた子供のための義務教育(義務通学ではない)を加えたのである。

 

 ジョン・スチュアートの経済学はデヴィッド・リカードゥやカール・マルクスのように極端に解釈が割れるわけでも、非主流の異端派経済学でもなく、ジェレミー・ベンサムやデヴィッド・リカードゥ、ロバート・マルサスという正統的な古典派経済学の後継者であり、彼以後の系譜もまたフェビアン協会の社会主義から厚生経済学、アルフレッド・マーシャルの新古典派などアングロ・サクソン経済学の本流である。資本主義が社会の発展を促したものの、人々を攻撃的にしてしまい、攻撃性を緩和させて富の再配分を行わなければ、いずれこの体制は行き詰ってしまう。経済活動に対する極端な自由放任も、過度な統制も、マルトリートメント(Maltreatment)としてジョン・スチュアートは斥け、その調整を模索する。ジョン・スチュアートは非難するよりも、賛辞を述べることが多く、オーギュスト・コントやトーマス・カーライルは彼が自分の意見に完全に同意したと誤解したほどである。ジョン・スチュアートは、驚くほど手際よく、対象とするテクストを要約し、問題点をあげつらうよりも、その意義を説明する。最後の大物古典派経済学者は労働者の団結権を認め、所有や相続税、土地制度の改善、教育改革を実施した上での労働者・女性への参政権拡大を説く。彼は資本主義の攻撃性の抑制と富の公正な配分という社会主義の理念に賛同しつつも、労働者階級の代弁者のように、逞しく歯を食いしばってではなく、優雅に、慎ましくも、資本主義の改良を訴え、暴力的な革命を決して望まない。体制を転覆して、乗っとるだけならともかく、それを統治・運営するほうがはるかに難しいと知っている。「情緒的に彼は社会主義に心ひかれたが、労働者の貧困化理論に立つ革命的な社会主義に反対であり、その態度はベルンシュタインの修正主義と変わらぬ、それゆえにこそマルクス主義者は彼を嫌うのだ」(ヨーゼフ・A・シュンペーター『経済分析の歴史』)

 ジョン・スチュアートの知性はすでにある枠組みから可能性を引き出す能力として発揮される。フランクフルト学派の力強い大胆不敵な批判理論と異なり、ヴィクトリア朝の堅苦しい丁寧さと革新的な変化に満ちている。その慎みある独創性は伝統的にも、急進的にも見える。これは他の著作でも共通している傾向である。彼はいつも穏やかで、謙虚に記すため、生ぬるい啓蒙的な入門書ないし軟弱な議論の叩き台と見くびられることさえある。レスリー・ステファン(Leslie Stephen)は、『イギリスの功利主義3 ジョン・スチュアート・ミル(The English Utilitarians, Volume 3: John Stuart Mill)(一九〇〇)において、「『自伝』が、この種の文学を魅力的にする性質をほとんどまったく欠いている」と不満を示している。ジョン・スチュアート自身も「波瀾の少ない生涯の記録」であり、「どの部分なりとも、読み物としても、あるいは私の一身に関する記事としても、一般読者に興味があり得るだろうなどとは、さらさら考えない」と告げている。しかし、このさりげなさこそがジョン・スチュアートの並々ならぬ独創性の特徴である。

 

Someday I'm going to write

The story of my life

I'll tell about the night we met

And how my heart can't forget

The way you smiled at me

 

I want the world to know

The story of my life

About the night your lips met mine

And that first exciting time

I held you close to me

 

The sorrow in our love was breakin' up

The mem’ry of a broken heart

But later on, the joy of makin' up

Never never more to part

 

There's one thing left to do

Before my story's through

I've got to take you for my wife

So the story of my life

Can start and end with you

 

The sorrow in our love was breakin' up

The mem'ry of a broken heart

But later on, the joy of makin' up

Never never more to part

 

There's one thing left to do

Before my story's through

I've got to take you for my wife

So the story of my life

Can start and end

Can start and end

Can start and end with you

(Hal David & Burt Bacharach “The Story Of My Life”)

 

 ジョン・スチュアートの提供してくれたアイデアには、当時としては卓見であったとしても、明らかに、今日の実情とあっていない点もある。人口の推移は、確かに、消費の動向を左右し、国家ならびに自治体の税収や産業構造を変化させるが、すべての政策決定の基準とすべきだというのはいささか強引であろう。けれども、労働者階級や女性への教育改革の必要性を説き、その上で、労働者階級は自発的に産児制限をするだろうという彼の楽観的な見通しは、教育水準の向上と共に少子化が進むという先進国の現状を言い当てている。また、晩年、ジョン・スチュアートは土地保有改革協会の運動を推進するが、彼が「改革(Reform)」の言葉を使うとき、それは野放図な資本主義的な自由化を意味するわけではない。近代以前のイングランドやウェールズには、「コモンズ(Commons)」と呼ばれる入会地があったけれども、それを一方的に囲いこんで資本主義が成長している。彼はこのコモンズの意義を解説し、その復活を夢見る。土地の国有化や農業の集団化を語りはしなかったが、社会主義者と非難されている。しかし、彼のコモンズの発想は、近年、ボーダーレス世界での共同性や環境問題対策として再考されている。

 ジェレミーは啓蒙主義の思想家たちと同じ世代に属しており、出版に頼ることなく、個人的な交際を通じて理論を普及・浸透させ、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』の中で明らかにしているように、一九世紀イギリスで実施された民法・刑法の行政改革は彼に影響を受けた弟子たちの手による。しかも、それは膨大な量の書簡やパンフレット、草稿などを閲覧し、トーリー主義からホイッグ主義まで含まれる矛盾する断片的な見解を自分の主張に応じて編集したにすぎず、ケインズ主義の萌芽さえ見られるジェレミーの意見は、彼のライフ・スタイル同様、時代の潮流に対してあまりにも進みすぎていたため、はるかに穏健なものになってしまったと言わざるを得ない。トーリー党もホイッグ党も具体的な歴史性を重視しながらも、コールリッジやヵーライルが代表である前者は直観による認識を主張する大陸的な演繹法を認めるのに対し、エドマンド・パークやトーマス・バビントン・マコーレーが支持する後者は直感的認識を否定し、経験に立脚する伝統的な帰納法の立場をとるが、ジェレミーは、確かに、知識は経験からつくられるけれども、人間性というものは不変であり、その前提に基づいて社会を再構成すべきだという抽象的で非歴史的な見解を訴えている。未来の哲学者の会議に参加するため、ほかの出席者たちへの失礼にあたらないようにと服を着て、杖を持ち、椅子に座った姿で自分自身の遺体をミイラ化させたジェレミーの「いかなる法律も自由の侵害である(Every law is an infraction of liberty)」というテーゼはヴィクトリア朝の紳士淑女にはとても同意できるものではない。時代から一歩だけ先にいれば、先見の明を褒め称えられるが、五歩も一〇歩も進んでいると、奇人変人扱いされてしまう。

 ジェレミーは、すべての個人行動が快楽と苦痛の量的比較に基づいており、それが「幸福の計算(Felicific calculus)」であり、これを使えば、あらゆる社会行動も個々人の総和として計算可能で、「最大多数の最大幸福(The greatest happiness of the greatest number)」という基準で理解できる「功利主義(Utilitarianism)」を提唱する。本来、人間は苦痛を避け、快楽を追及する存在であるけれども、行為の倫理的価値は超越的でも、恣意的でもなく、その結果が有用であったか否かで決まり、さらに、「最大多数の最大幸福」という社会の最終目的に沿って判定される。ジョン・スチュアートは、『功利主義(Utilitarianism)(一八六一)の中で、「同じ量の幸福は、それが同じ人物に感じられようと、違う人々が感じようと、同じくらい望ましいものだ。(略)もし事前に想定すべき原理があるとしたら、これ以外にはあり得ない。つまり、算術が持つ真実性は、その他計測可能な主義主張すべてと同じく、幸福の評価にも適用できる」 と解説している。

 ジョン・スチュアートは功利主義の「快楽」が広い意味を含んでいると説得しつつ、しばしば、功利主義だけですべてが語りつくされるわけではないという常識的な意見も繰り返している。功利主義への短絡的な批判に対しては、それを擁護し、功利主義の盲信者には、その不完全性を告げる。「功利または幸福は、あまりにも複雑で不確定な目的であり、さまざまな二次的原理の媒介を借りなければ、決して狙うことができない」(『功利主義』)。俗流の功利主義はチャールズ・ディケンズの小説に登場する守銭奴に限らず、現代の新自由主義者にも見られ、依然として根強い。ジョン・スチュアートはすべての思想にも長所と短所があり、お互いに補うべきだとしてその調整役をかってでる。

 そもそも加減できるのは、単位の同じ物理量に限られる。一ℓの二〇℃の水と一ℓの一五℃の水があったとして、それをあわせて二ℓの水であっても、三五℃の水とは言えない。また、一mと一gを足せないように、単位の異なる物質を加減することはできない。

 快楽を人生の究極の目的と定めたのは功利主義が史上初ではなく、このイギリスの思想は伝統的な快楽主義の系譜上にある。デモクリトスは、古代ギリシアの自然哲学者にとっての最大の問題、すなわちアルケーをアトムと答え、われわれの考えるべきことは道徳の問題であって、それは「愉快」に集約されると態度の変更を行っている。彼の後継者エピクロスも、この説に則り、人生の目的は幸福であり、快楽が最高善であると主張している。デモクリトスとエピクロスは完全に同じ理論を語ったわけではなく、両者はいくつかの点で異なっており、最も有名なのは若きカール・マルクスが論じたアトムの運動をめぐる問題である。ジェレミーとジョン・スチュアートの差異はデモクリトスとエピクロスのそれに似ている。功利主義は近代のアトム論・快楽主義である。

 功利の計算は、満足のいく計算結果を導き出せた者がいまだに登場していないせいもあって、発表された当時でも、現代でも、倫理学者から嘲笑を浴びせられ続けている悪名高きものであるが、これは法曹関係者には歓迎され、今日、司法は「公共の福祉(Public welfare)」を「最大多数の最大幸福」から判断し、民事・刑事を問わず、裁判の基礎に位置づけている。謝りたくない者を強制的に謝罪させることはできない以上、その代わりに、被った苦痛・損害に対する賠償請求の訴訟を起こす場合、それは幸福の計算に従っている。また、「最大多数の最大幸福」は、一定年齢に達したすべての国民に選挙権が与えられ、多数の得票を得た候補者が当選し、議会で多数派が政権を担うという議会制民主主義の正当性と普通選挙権の実現にも影響を与えている、

 エドムント・フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と現象学的還元』の中で明確化している通り、ガリレオ・ガリレイの測量術以来、歴史は世界を数量的に把握する傾向もなってきたが、ジェレミーの功利主義もこの延長線上にあり、少数派が体制を牛耳り、多数派を支配する状態に異議を提起している。彼は、同じ単位の物理量以外は加減できないという前提に従い、社会の基本単位を平等で均質な一人の個人に置き、その総和を重視したため、すでにかなり発達した資本主義体制下、富が集中するよりも、平等に分配されるほうが社会全体の幸福の量は増大すると考え、普通選挙制度を主張する。

 ジェレミーの快楽に関する自然科学的解釈はジョン・スチュアートにも引き継がれるが、彼の最も知られた「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい(It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied, better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.)」という『功利主義』第二章の一節が要約している通り、それを質的に変換させる。「自由競争も、本当に自由にすれば競争のしようがない。違うものの間で、例えば八百屋さんと魚屋さんが競争したってしようがない。囲碁の名人と将棋の名人とどっちが強いかといっても意味がない」(森毅『本質的なものほど計りにくいものだ』)。ジェレミーが線形の功利主義だったとすれば、ジョン・スチュアートは非線形の功利主義である。しかし、線形を見捨てたわけではなく、涼やかな情熱に彩られた禁欲的快楽主義とも言うべき姿勢で彼は線形と非線形の相互補完を模索する。ジョン・スチュアートは、選挙制度においては、ジェレミーの功利主義を原理主義的に推し進め、成人男性に限定する普通選挙法ではなく、女性にも参政権を拡大すべきだと提案する。下院議員だった一八六七年の選挙法改正案の提出にあたって、その中の”man””person”に改める修正案を提出している。選挙はどのようにしても線形的であることを免れず、その意味で、近代の制度であるが、彼は質、すなわち非線形性を導入しようと試みる。『代議制論(Considerations on Representative Government)(一八六一)では、近代的な平等を実現すると同時に、質的な差異を反映させるため、比例代表制と複数投票制を支持している。これなら少数意見を組み入れられ、無批判的な多数派の形成も抑制できる。民主主義の量的拡大は当然であるとしても、質的拡充を図らなければ、近代の僭主政治が生まれるだけである。

 ジョン・スチュアートは多数派の暴走に警戒感を解くことはなく、自由と平等もその心配から考察する。自由と平等は広義の功利には含まれ、しばしば相容れないが、彼はそれを調整するのが道徳であり、道徳は知的なものと規定する。アレクシス・ド・トクヴィルは、『アメリカのデモクラシー』の中で、身分制が希薄なアメリカでは、平等の達成を民主主義的目標と考えられているヨーロッパと違い、自由の実現がそうだと信じられていると報告している。ジョン・スチュアートは、そこで、アメリカ型とヨーロッパ型の民主主義的理念の調整を試みる。彼の『経済学原理』もこの認識を踏襲し、「生産の増加がいまだに重要な問題であるのは、世界の未開国だけに限られる。最も進歩した国々では、経済上要求されるものは、よりよい分配であって、そのために欠くことのできない手段の一つは、人口の増加に対する厳格な制限である」と言っている。分配が産児制限と結びついている論理は、現代の先進国の現状を照らし合わせると、奇妙であるけれども、これには経済学に暗澹たる趣を持ちこんだロバート・マルサスの『人口論』の影響がある。この一九世紀中最も有名な社会科学者は、それまで経済学がいかにして豊かになるかという明るい未来像を描いてきたのに対し、アイロニーを用いて、このままでいくと、人口過剰により、資本主義体制は破滅すると黙示録的な警告を発している。古典派経済学は自由を経済活動の自由、すなわち生産に限定して考えていたが、ジョン・スチュアートは彼の生きていた時代・社会においては「よりよい分配」、すなわち平等こそが重要なトピックであり、権力からの自由という政治的自由に加え、社会の多数派の横暴からの自由である社会的自由を実現しなければならないと主張する。こうした発想は現在では全体主義の経験から常識化しているけれども、近代以前の人々も抱いている。古代のユダヤ人は、議会であると同時に宗教裁判でもあるサンヘドリンにおいて、満場一致の決議を無効としている。さまざまな背景を持った人が集まっているのに、全会一致になるのは、一時の感情あるいはその場の雰囲気に流されたか、買収されたか以外にありえない。全知全能の神ならいざ知らず、人間が絶対ではないからである。少数意見は、そのため、尊重されなければならない。

 ジョン・スチュアートは、ジェレミーの量の功利主義を修正し、質の重要性を付け加えているが、この量から質への発展は現代においてもよく見られる。公開を前提にした活動は、信頼性を上げ、定着化させるために、まず、数量化を図り、その後、質の重視へと転換する。けれども、その質も数量によって表現しなければならないというアポリアに陥ってしまう。数量化は主観性が入りこみにくく、標準的な人たちにとって、判断の基準になりやすいが、異なった背景・関心を持つ個々人にはそれでは計れない。サイバー・スペースには、全人類の人口に匹敵する数のホーム・ページがあると推測され、その中から、必要に応じたサイトをダウンロードするには、検索エンジンが欠かせない。ラリー・ページとセルゲイ・ブリンが人類の英知に寄与したいという高尚な理想から始めたグーグルもその典型である。ラリーの発案によって生まれたページ・ランクは当初人気投票にすぎなかったけれども、グーグルボットを通じて収集されたサイトからリンク数やキーワードの量などによって優先順位が表われるようにしている。ところが、ページ・ランクの上位に載るために、開設者や業者たちは架空のサイトとのリンクを多く貼ったり、ページ内のボキャブラリーを貧弱にして、予想されるキーワードを多用したりする辞退が頻発し、二〇〇三年、グーグルは「フロリダ」と呼ばれるアルゴリズムによって大幅な改善を行っている。しかし、プログラムいくら修正しても、やはりこうした操作は完全には消えないのであって、最終的には、サイトの質は利用者が判断するほかない。だいたい、ソースが何らかの形で外部にわかられてしまったら、グーグルの信用は失墜し、ランク上位に掲載されるメリットはなくなってしまうというジレンマある。また、グーグルがカバーしていないウェブは存在しないも同様と見なされるとしたら、それは全体主義的であり、少数意見の排除につながりかねない。質の問題は主観性に委ねられるが、それは非均質的な非線形の領域であり、質の功利主義は近代の思考の枠組みを再検討を促す。

 

 ある国民は、ある一定の期間中進歩するが、そののち、進歩がとまってしまうように思われる。いつ進歩がとまるのであろうか。その国民が個性をもたなくたるときである。もし万一、同じような変化がヨーロッパの諸国民を襲うとしても、それはまったく同じ形においてではないだろう。これらヨーロッパの諸国民がおびやかされている習慣の専制は、まったく不動不変のものではない。それは、特異性は排斥するが、すべてが同時に変化するかぎり、変化を排除しはしない。われわれは、われわれの祖先の固定した服装をすててきた。もちろん今日でも、すべての人は他の人々と同じように装わなければならないが、流行は年に一、二度は変わるであろう。こうしてわれわれは、変化があれば、それは変化のための変化であって、それが美や便利についてのいかなる考えから生じたものともならないように配慮する。なぜなら、美や便利についての同一の考えが、同一の瞬間に全世界の人々に思い浮かぶことはないだろうし、また他の瞬間に、全世界の人々によって同時に捨てられることもないだろうからである。

 しかしわれわれは、変化的であると同時に進歩的である。われわれは、機械的なものごとにおいてたえず新しい発明をし、そしてそれを保持するが、それらもまた、やがて、よりよいものによってとってかわられてゆく。われわれは、政治や教育の改善、さらに道徳の改善にさえ熱心である。もっとも、この最後の道徳の場合、われわれの考える改善は、主として、他人にわれわれ自身と同じように善良であれと説得あるいは強制することにあるのだが。われわれが反対するのは、進歩に対してではない。それどころか、われわれは、われわれこそがこれまででいちばん進歩的な国民だ、とうぬぼれている。われわれが戦いを挑むのは、個性に対してである。われわれは、もしわれわれ自身をみな一様にすることができたとすれば、奇蹟をなしとげたのだと考えるにちがいない。その際、われわれは次のことを忘れているのである。すなわち、一般に、ある一人の人間が別の一人に似ていないということこそが、その両者のどちらにも、彼自身の型の不完全さや相手方の優越性に対して、あるいは、両者の長所を結合させることにより、そのいずれよりもすぐれたものを生みだす可能に対して、注意を向けさせる第一のものなのだ、ということを。

(『自由論』)

 

 ジョン・スチュアートが少数意見の尊重を主張したのは、歴史的に民主主義は量的ではなく、質的であったからである。古典時代のアテナイにおいて、選挙は金持ちや有名人に悠里であるため、貴族制に属し、民主制を意味するのはくじ引きで短期間公職を務める市民を選ぶ輪番制である。また、近代の議会は、ヨーロッパ中世の身分制議会に起源を持っており、国王権力の抑制の機能を果たしている。選挙を民主主義の制度としているのは近代の信念にすぎない。

 産業革命が産業組織を急激に改編し、資本主義体制が確立される中、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立が激化する。労働運動と自然発生的な社会主義思想は未熟だったが、労働者の普通選挙権獲得運動、いわゆるチャーチスト運動も合流し、政治的・社会的な変革、すなわち意思決定過程の改定と人民のエンパワーメント(Empowerment)への動きが高揚する。こうした変動の時代において、ジョン・スチュアートはたんに進行する社会の変化を帰納法的に追認するだけでも、あるべき世界を演繹法的に提示するのでもなく、自然科学に立脚して、社会的事象の解釈と理論的な方法論の統合を目指している。帰納法と演繹法は相互に補足しあうべきであり、経験や観察から得られた帰納法的知識は演繹的な原理によって論証されなければならない。

 ジョン・スチュアートは変化と分裂の統合を試みても、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・へーゲルのような弁証法を用いることなく、『自由論(On Liberty)(一八五九)の中で、中国について次のように述べている。

 

 われわれは、中国に一つの警告的事例をみる。それは、次のような、まれにみる幸運のおかげで、豊かな才能と、いくつかの点では知恵さえ富む国民である。この国民は、もっと進歩したヨーロッパ人でさえ、ある限定下では賢者や哲学者の名を献ぜざるをえないような人々によって、ある程度つくられた、一連の非常にすぐれた習慣を初期の時代に恵まれていたのである。また、彼ら中国人は、その所有する最善の知恵を、社会のあらゆる人人の心に可能なかぎり印象づけ、その知恵のもっとも多くを自分のものとした人々に、名誉と権勢の地位につくことを保証するという、制度の優秀さという点でも注目に値する。

 確かに、このことを成就した国民は、人類の進歩の秘密を発見したのであり、したがって、たえず世界の動きの先頭の位置を保持しえたはずの人々であった。だが事実は、その反対に、彼らは停滞してしまった──幾千年もの間、停滞を続けているのである。もし、彼らがさらに改善されることがあるとすれば、それは外国人たちによってなされるに違いない。彼らは、イギリスの博愛主義者たちがあれほど熱心に奮闘していることに──すなわち国民をすべて一様にし、すべての人が自己の思想と行動を同一の格言や規則によって支配するようにすることに──、あらゆる希望をうわまわる成功をおさめたのである。そして、その結果は今述べた通りである。

 世論という現代の統治制度は、中国の教育および政治制度が組織的な形態でしていることを、非組織的な形態で行なっているものにほかならない。したがって、個性がこのくびきに対抗して、自己を主張することに成功できなければ、ヨーロッパは、その高貴な祖先とその自認しているキリスト教にもかかわらず、第二の中国への方向をたどるであろう。

 

 この中国は歴史的発展過程の最初の段階ではなく、一つの表象であり、一つの寓話である。中国人たちは、いくつかの点で、ヨーロッパ人をはるかに凌駕しているが、「世論」を形成するような制度を導入しなかったため、「停滞」に陥っているが、そう見下しているイギリスにもそうなりかねない徴候がある。歴史は決して線的ではない。ジョン・スチュアートは、中国を通じて、イギリスを批判しているのであって、胡坐をかくことなく、政治制度を革新する必要性を告げている。イギリスは進歩の最終段階ではない。

 

Stand beside me all the while no matter what goes wrong

Separately we're weak, together we'll be strong

For true love never runs smooth, but I don't care

'cause true love is worth all the pain, the heartaches and tears

That we may share.

 

la-la-la-la-la-la-la

 

When the world outside my arms is pulling us apart

Press your lips to mine and hold me with your heart

For true love never runs smooth, that's what they say

But true love is worth all the pain, the heartaches and tears

We have to face.

 

la-la-la-la-la-la-la

 

For true love never runs smooth, that's what they say

But true love is worth all the pain, the heartaches and tears

We have to face.

 

la-la-la-la-la-la-la

 (Hal David & Burt Bacharach “True Love Never Runs Smooth”)

 

 一八四九年、妻の看病のかいなく、彼女に決して少なくない金額の遺産を残し、ジョンが癌により他界する。喪が明けた五一年、二人は誰も招待客のいない結婚式を挙げ、晴れて、彼女は「ハリエット・テイラー・ミル(Harriet Taylor Mill)」と呼ばれるようになる。その際、ジョン・スチュアートは、自らの男女同権の理論に忠実に、夫に認められていた妻に対する不平等な権利を放棄している。ロンドン郊外のブラックヒースに子供たちと共に移り住んだものの、結婚後一年もしない間に、二人の結核感染が判明したため、療養目的で、ジョン・スチュアートは会社勤務により休暇をすごすだけだったが、お気に入りのアヴィニョンに居を移し、新たな生活を始める。永遠に続くのではないかと気をもむほど会話は弾み、笑顔がいつも絶えない。一緒にピアノを弾いたり、野原を植物採集して回ったりするなど待ちに待った穏やかな時が彼らを包んでいる。そこにハリエットがいるのを見たとき、ジョン・スチュアートは「ああ、幸せとは、もしかしたら、こういったものだったのか」としみじみ思う。しかし、それは七年半続いた後、突然、幕を閉じる。一八五八年一一月三日、風邪をこじらせたハリエットがこの世から去ってしまったからである。

 

The look of love is in your eyes

A look your smile can't disguise

The look of love is saying so much more than just words could ever say

And what my heart has heard, well it takes my breath away

 

I can hardly wait to hold you, feel my arms around you

How long I have waited

Waited just to love you, now that I have found you

Don't ever go You've got the

 

Look of love, it's on your face

A look that time can't erase

Be mine tonight, let this be just the start of so many nights like this

Let's take a lover's vow and then seal it with a kiss

 

I can hardly wait to hold you, feel my arms around you

How long I have waited

Waited just to love you, now that I have found you

Don't ever go

Don't ever go

 

I love you so

I love you so

I love you so

(Hal David & Burt Bacharach “The Look Of Love”)

 

 一人になってから、彼は何の気もなく彼女をふと思い出すと、あの『回想録』に触れたときのごとく、とめどもなく涙が溢れてくる。いくら泣いたとしても、涙の枯れることはない。しかし、そのとき、ほんのりと心が温かくなる。反芻し続けるうちに、前と同じように、ハリエットは彼に語りかけ、癒し、励まして、力を与えてくれる。彼女が自分の涙にそっと口づけをしてくれた気さえする。それは幻覚ではない。一緒に暮らし、一緒に月日を重ねた時に後悔はない。そもそも人生とはあてがはずれるものだ。ジョン・スチュアートは、『自由論』の中で、愚かな行為を含む個人の自由を認め、その自由の前提として「他人に危害を加えない」と付加している。ジョン・スチュアートにしても、ジョンにすまないという気持ちがなかったわけではない。人がどう思おうと、誰もがその名前を忘れたとしても、彼女は、間違いなく、彼にはかけがえのない女性である。思い出を何度も反芻し、「人生とはこういうものだったのか」とその味わい深さを実感する。そこはもう一つの世界である。了見が狭い世間の陰湿な陰口の悪意がいらつかせることはもうない。ジョン・スチュアートとハリエットは十分耐えてきたが、それをわかろうとする人はほとんどいない。迷惑なことばかりしていると眉をひそめるだけである。二人は、無条件に、愛を信じている。それは、世間から見れば、愚かなことだろう。喪服の女王の時代、か、多くの人々は愛という厄介なものなど信じてはいない。打算で生きる彼らには、損得勘定から、条件つきで愛を口にするだけでしかない。愛を信じられない人は二人と離れていくほかない。けれども、愛と共に生きていくとすれば、ジョン・スチュアートとハリエットはああするしかない。ジョン・スチュアートにとって、書くことはハリエットを愛することと同じである。愛を信じているがゆえに、ジョン・スチュアートはあらゆる事象を考え、書き続ける。たとえその名前が記されていなくとも、論理学だろうと、経済学だろうと、政治学だろうと、彼の著作にはハリエットの姿が見える。ハリエットとの愛は、ジョン・スチュアートを思いもよらぬ高みにまで連れていく。彼は幸福を心から感じつつも、一人になった苦痛が消えることはない、しかし、苦痛のあるまま生きられる気がする。と言うのも、愛とはどうしようもなく、そういうものだからである。

 結婚後の自作について、ジョン・スチュアートは『自伝』で「完全に妻の考えを解説したもの」であり、「二人の合作である」と言っている。これは彼がハリエットの思考を化学反応させた「触媒」として機能した、すなわち彼女と出会うことで、「触媒」という生成を自覚したことを告げている。ジョン・スチュアートは、ハリエットを通じて、世界に接する。彼は直接的にそれを見ることはなく、そのために、媒介性を必要とする。

 最初から、ジョン・スチュアートは触媒という認識を抱いていたわけではない。東インド会社に出勤する途中、公園で捨て子の死体を見て、労働者階級の置かれている現状にショックを受けたジェイムズの息子は、正義感に燃える若者らしく、産児制限のビラを配り、これにより、短期間ながら、投獄されている。彼自身が積極的に活動しようとした結果、例の陰鬱な精神状態に陥った際の自問自答につながり、触媒として目覚めるまで、不安定さを克服できていない。彼は、「自律」を説いたイマヌエル・カントと違い、自立という概念を肯定的に捉え、依存が情けない独立心の欠けた未熟さという近代的な通念を斥ける。その後、ジョン・スチュアートは、ハリエットを通じて、共生の重要性を認め、それを触媒が可能にすることを確信していく。

 触媒(Catalyst)は、化学反応において、その反応を加速・減速させる物質であり、触媒自身は反応の影響を受け、反応中間体を形成するものの、最終的には、見かけ上、不変であって、酵素は最も強力な触媒である。促進剤、あるいは助触媒と呼ばれる触媒はそれ自体は触媒機能を持たないが、触媒の活性を増大させる。触媒のメカニズムについては不明の点も多いが、化学反応を促進させる原因は反応物質と触媒が反応中間体を形成し、最終的に反応生成物となる過程での活性化エネルギーがそれを用いない場合より低くなるためである。反応中間体(Reaction intermediate)は複数の素反応からなる反応において最終生成物へと変換される各素反応の生成物を指し、概して、不安定で単離できず、一つの素反応において原料から生成物へ反応する途中のエネルギーの高い状態は「遷移状態」であって、それと区別する。触媒は、均一触媒と不均一(接触)触媒に二分できる。前者の反応は溶液内で反応が進行するので、溶液化学に接近し、後者では触媒表面で進行するため、界面化学に近づく。いずれにしても、触媒は、多くの場合、有機化合物が反応に関与する。均一触媒反応の一例は、酸化窒素を触媒として二酸化硫黄を酸素と反応させて三酸化硫黄を形成する反応であり、この反応では中間化合物である二酸化窒素を一時的に形成した後、二酸化窒素が酸素と反応して酸化硫黄を形成し、反応終了時の酸化窒素の量は反応開始時と変わらない。他方、不均一触媒反応の例は、白金微粉を触媒として、一酸化炭素を酸素と反応させ、二酸化炭素を形成する反応であり、排気ガスから一酸化炭素を除去するために、自動車に装備される触媒コンバーターで使用される。近代の環境問題は、環境に価格がないという素朴な理由、すなわち市場経済の根本的な欠点である外部性から派生しているわけだが、その技術的な解決策の一つとして触媒が利用されている。

 触媒の利用の歴史は古く、中でも、チーズのレンネットなどの酵素触媒やアルコールからエーテルを合成するための酸触媒は知られていたものの、触媒反応と量論反応の区別がつかず、触媒自体が研究されることはなく、一八世紀になって、粘土によってエタノールがエチレンに変わる反応から、ジョゼフ・プリーストリーがその存在を発見している。イェンス・ベルセリウスが何らかの作用によって結合を切断する作用のことをギリシア語の解くという言葉から「触媒作用(Catalysis)」と呼び、「始めに言葉あり」の通り、触媒の構造や性質、触媒反応の反応機構、触媒の設計などを研究する「触媒化学(Chemistry of catalysis; Catalyst chemistry)」が始まる。触媒は、当初、特殊な触媒力とでもいうべき力によって触媒作用を生み出していると考えられていたが、ヴィルヘルム・オストワルトが触媒の定義を「反応速度を変えるが、平衡を変えないもの」とし、酸や塩基が触媒であることが認知される。第二次産業革命期に、化学工業が発展するに連れて、オストワルト法やハーバー・ボッシュ法によって化学製品が製造されるようになると、触媒の重要性が認識されると、触媒化学は飛躍的に発達し、今では、触媒と担体や助触媒の組み合わせを通じた効率的な触媒の開発、触媒の形状や形態別の性質の解明、電子顕微鏡やX線回折による触媒の構造解析などに至り、化学工業の八〇%は触媒反応を利用している。

 触媒化学の草創期に生きたジョン・スチュアートは触媒を体現している。ハリエットが生きていた間は、均一触媒的であり、亡くなってからは、接触触媒的になっている。触媒であるために、反応中間体になったと自分では感じていても、外から確認できず、彼の独創性はさりげなくしか現われない。二つの相反する理論を、自らが触媒になることで、化学反応させ、両者は共生する。理論は社会を変えるのではなく、触媒として、変化に寄与する。近代の哲学者たちは、押しの弱い者を弱虫と足元を見られ泣き寝入りするだけとばかりに、自説の独創性を声高に社会へ訴える。しかし、ジョン・スチュアートから見れば、アジテートはおこがましい思い上がりにすぎない。大声で何かを押しつけたところで、強引に量で質を押しつぶそうとしているにすぎず、しこりを残すだけである。論理学も、経済学も、政治学も、社会にとって触媒であって、過信すべきではない。控え目に納得させるような独創性は、見かけとは裏腹に、むしろ、革命的である。晩年のジョン・スチュアートの最大の関心事は女性の権利拡大であり、『女性論(The Subjection of Women)(一八六九)で女性の権利拡大はたんに女性にのみ利益があるのではなく、男性にも有意義だと優美に説明する。近代の産業革命によって、労働する女性や貧困から悲惨な生活を送る女性が生まれ、婦人問題が出現する。女性は男性の肉体的優位によって隷属させられ、厚かましい暴力と恥知らずな策略が社会を悪化させるので、男女は平等にすべきである。けれども、権利の獲得が最終目的ではなく、そこからさらに尊厳の獲得へと進まなければならない。権利は議会で多数派を握れば、獲得でき、量に属するが、尊厳はそれでは達成できない質的なものである。権利は尊厳を実感するための第一歩である。尊厳は共生に立脚する。ジョン・スチュアートは、触媒として機能することで、このように尊厳の問題を提起している。彼が目指していたのは尊厳の論理学であり、尊厳の倫理学であり、尊厳の経済学であり、尊厳の政治学にほかならない。

 

What the world needs now is love, sweet love

It's the only thing that there's just too little of

What the world needs now is love, sweet love,

No not just for some but for everyone.

 

Lord, we don't need another mountain,

There are mountains and hillsides enough to climb

There are oceans and rivers enough to cross,

Enough to last till the end of time.

 

What the world needs now is love, sweet love

It's the only thing that there's just too little of

What the world needs now is love, sweet love,

No, not just for some but for everyone.

 

Lord, we don't need another meadow

There are cornfields and wheat fields enough to grow

There are sunbeams and moonbeams enough to shine

Oh listen, lord, if you want to know.

 

What the world needs now is love, sweet love

It's the only thing that there's just too little of

What the world needs now is love, sweet love,

No, not just for some but for everyone.

No, not just for some, oh, but just for everyone.

 (Hal David & Burt Bacharach “What The World Needs Now Is Love”)

 

 ハリエットの死後、彼女が葬られた大理石製の墓の近くにささやかな家を購入したジョン・スチュアートは彼女の長女で、後に「社会民主連盟」という社会主義団体の創設に協力するリリー、すなわちヘレンに支えられながら、執筆をしたり、会合に参加したりしている。少数意見の尊重を勧めた思想家らしく彼は、イギリスの世論に反して、南北戦争では奴隷解放の点から北軍、普仏戦争の際にナポレオン三世の無分別さを嫌ってプロシアを支持して周囲を驚かせたものの、疎遠になっていた家族や友人とも和解している。

 

Have you ever dreamed of a place far away from it all?

Where the air you breathe is soft and clean,

And children play in fields of green,

And the sound of guns doesn't pound in your ears.

 

Have you ever dreamed of a place far away from it all?

Where the winter winds will never blow,

And living things have room to grow,

And the sound of guns doesn't pound in your ears, anymore.

 

Many miles from yesterday, before you reach tomorrow,

Where the time is always just today,

There's a Lost Horizon, waiting to be found.

 

There's a Lost Horizon

Where the sound of guns doesn't pound in your ears, anymore.

(Hal David & Burt Bacharach “Lost Horizon”)

 

 一八六五年から六八年までの一期だけ自由党選出の下院議員を務めた後、南仏ですごす時間が増え、観察を重視した博物学者アンリ・ファーブルとも友達になっている。一八七三年五月三日、ジョン・スチュアートはオランジュのアンリの家を訪ね、彼と遠出に出かけ、一五マイルもの行程をちょこまかと忙しそうに進む小柄な昆虫学者の後を大股で自然を観察しながら続き、リリーに採取した美しい植物のお土産を持参して、楽しい気分で帰宅する。功利主義にはいろいろと不備もあるが、快楽を善とすることは決して間違いではないと呟き、それにしても疲れたと崩れるようにベッドへ倒れこむ。しかし、その暑い土曜日から二日後、急に発熱し、八日の早朝、風土病の丹毒の典型的な症状を示して六五歳の生涯を終えている。「私は仕事をなし終えた」とうわ言のような言葉をヘレンは最期に耳にした気がする。遺族はロンドンから要請されたウェストミンスター墓地への大英帝国の宝としての埋葬を拒否し、翌日、彼の亡骸はその歩きなれた道の先にある墓地のハリエットの傍に納められる。二人は、今も、かつての残り香が漂うその場所に眠っている。

 

(James)

Start with a man and you have one.

Add on a woman and then you have two.

 

(James & Chorus)

Add on a child and what have you got?

You've got more than three.

You've got what they call a family.

 

(Chorus)

Living Together, Growing Together, just being together,

That's how it starts.

Three loving hearts all pulling together, working together, just building together,

That makes you strong.

If things go wrong we'll still get along somehow,

Living and growing together.

 

It just takes wood to build a house.

Fill it with people and you have a home.

Fill it with love and people take root.

It's just like a tree where each branch becomes a family that's

Living Together, Growing Together, just being together,

That's how it starts.

Three loving hearts all pulling together, working together, just building together,

That makes you strong.

If things go wrong we'll

 

(Gene)

Still get along somehow,

 

(James)

Living and growing together.

 

(Chorus)

Living Together, Growing Together, just being together,

That's how it starts.

Three loving hearts all pulling together, working together, just building together,

That makes you strong.

If things go wrong we'll still get along somehow,

Living and growing just like we're doing now, together.

(Hal David & Burt Bacharach “Living Together, Growing Together”)

 

 「人類の意見は、いつも現実の事実を神聖化し、いまだかつて存在しなかったものを有害であるとか、実行不可能なものであるという傾向がある」(ジョン・スチュアート・ミル『社会主義論(Socialism))

〈了〉

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